伊豆大島の産業で、代表的なものは、四方を海に囲まれた火山島ならではの地形的特性を活かし築きあげられてきた「伝統産業」として今日まで受け継がれている。現在、大島に残されている文献で一番古いものは元禄7年(1694年)の「大島浦竃百姓証文」であることから、昔の産業を記録として確認できるのは江戸時代頃からとなる。以下、残された文献の記述から過去と現在の各産業の変遷を見ていきたいと思う。
「海塩」
大島における製塩は2つの時代に大別できる。江戸時代初期に年貢として上納されていた時代と、昭和時代に塩専売法により制限されていた当時、市民運動として行われた時代である。現在の大島における製塩業は後者が礎となって生まれた。
大島に限らず日本の製塩は岩塩層や塩湖が存在せず、気象的にも乾季を利用した屋外製塩などが不可能なことから、太古から海水を煮て採取するしか方法はなかった。江戸時代、大島では作った塩のほとんどを年貢として取り立てられたため、慢性的な塩不足に悩む島民は独自の食文化を育んだ。塩を節約し漬け汁を繰り返して使ったことから生まれた「くさや」の干物などはその代表例である。
江戸時代の製塩は村落ごと分業され行われていた。元村(現・元町)と岡田が「漁業権・生産物運送・交易権・廻船株取得権」などを独占的に行使して運営する『浦方(うらかた)』に対し、野増、差木地、泉津の三村は「塩と薪の生産と積荷」を主とする『竃方(かまかた)』を受け持った。しかし元禄3年(1690年)以降は自然災害による釜などの製塩設備の損壊や、塩づくりがあまりにも過酷な労働を伴ったことから救済を求めた末に金納となり、竃方村民の主な産業は薪の生産に移行していった。
現在の大島における製塩は「日本食用塩研究会」が昭和51年(1976年)に製塩試験場を開設したことに始まる。
昭和46年(1971年)に施行された「塩業近代化臨時措置法」により有史以来続いた伝統的な塩田が全廃され、日本の塩が「イオン交換式製塩法」で作られた高純度の塩化ナトリウムだけになることを危惧した市民による、いわゆる「自然塩復活運動」が起きる。海水のミネラルバランスが整った、昔ながらの伝統海塩を復活させることを目的に塩運動展開の一環として大島で塩づくりが始まった。
現在の海の精(株)の前身である日本食用塩研究会が試験製塩、会員配布という形で国から特別許可を得て、自主生産自主流通を行い伝統海塩を復活させ、長年にわたり当局との様々なやりとりを繰り返し自由化への道を開いた。1997(平成9)年に塩専売法が廃止され自由化に伴い全国各地で塩づくりが始まったが、そのきっかけとなった日本食用塩研究会の活動は大島のみならず日本の塩業史的にも特筆すべき出来事であった。現在大島では海の精を含めて三つの塩事業者がある。
「くさや」
日本書紀に「ミサゴずし」の名が出ているそうで、これはミサゴという鳶くらいの海鳥が、海岸から魚類をとってきては食べ、その残りを岩陰に隠しておく。これに海水がかかり自然発酵しうまみが増したものを漁師が見つけ、人間が食べるようになったとのこと。
大島にゆかりがある源為朝について書かれた滝沢馬琴の小説「椿説弓張月」の中にも、源為朝が大島に流された際に、「ミサゴずし」を食べたという表記があるという。伝説の域を出ないにしろ、「くさや」の始まりではないかと推測されている。
一方で、「くさや」はその昔、離島の厳しい日々の暮らしの中で大切な食料であった魚をより長く保存するために、桶の中の海水に漬け込んで干物にしたもので、塩や水はとても貴重であったため、一度使った塩水に塩を足しつつ何度も漬け込みを繰り返すうち、魚の成分から微生物が発生・作用し塩水が発酵、ついには独特な香りと味をもった「くさや液」が出来上がった偶然の産物とも推測されている。
現在、「くさや」を製造している業者は伊豆大島の南部、波浮港地区に集中している。波浮港や伊豆諸島近海であがったとび魚やアオムロアジなどの青魚はもちろん、全国より鮮度の良い良質な魚を仕入れている。それらを手際よくさばき、水洗いをして、300年以上もの間継ぎ足し使われてきた秘伝の「くさや液」に漬け込む。魚が重ならないように確認しながら、手で一枚一枚丁寧に漬け込む。
この「くさや液」は毎日継ぎ足して使っているが、魚を漬けすぎても、あまり漬けなくても液はダメになるそうだ。つまり、生きている発酵菌を疲れさせず、程よい状態に保つ必要があるとのこと。液は時折ボコボコと音を立てながら泡ぶくを出していた。まさに発酵菌が活発に活動している証拠だろう。
漬け込んだ後は、水洗いをし、乾燥させて完成。特に十月から春先にかけての天日干しは最高だ。
「椿油」
大島には現在、およそ300万本の椿が存在するといわれている。その中で椿油として利用するのは日本固有の原生種ヤブツバキの種子である。風が強い大島においてヤブツバキは防風林として山畑の境に並木のように植えられてきた。
ヤブツバキの花は、鑑賞はもちろん、椿の花びら染の染料となる。実は椿油に。搾りかすは肥料に。葉は椿灰として釉薬や染料の助剤に。幹は椿炭や彫刻の材料となり、すべてを余すことなく利用できる貴重な植物であり、島民の暮らしを支えてきた島の宝である。
起源についての詳細は不明だが、1978年の伊豆大島近海地震において、元町地区にある下高洞遺跡C地区(縄文中期 約5500年前、後期 4500年前)の崩落した土層から椿の葉の化石が発見されている。
産業目線での伊豆大島での精油の初めは江戸時代中期~後期とみられている。はじめは灯油(ともしびあぶら)として用いられ、髪にぬり、搾りかすは煮返して食用に供したとのこと。
椿油の成分の約86%が「オレイン酸」という脂肪酸である。人の皮膚から分泌される脂肪分と性質が似ているので、よく馴染むとのこと。
現在、椿油の製油業者は昔ながらの製法を守り代々続く老舗から、新たな製法を開発し事業を展開する企業までさまざま。秋になると島内のいたる場所で椿の実を拾う人々の姿を見かける。拾い集められた実はそれぞれ馴染みの製油所に持ち込み選別され十分に乾燥させる。乾燥後さらに良質な実をひとつひとつ手作業で選び、ようやく椿油を搾る行程へと進むことができる。地道な作業だが、油の質を決めるとても重要な作業だ。
椿の実は毎年の収穫量が安定しないため、需要と供給のバランスが難しい。実を拾い届ける人、油を搾る人、油を使う人。お互いの信頼が積み重なり、つながり、今も育まれている伝統産業だ。
出典
東京都大島町史 通史編P181「塩焼きについて」P737「椿油」
NPO法人 日本食用塩研究会 発行 「知っトク情報!正しい塩の選び方(食用塩公正競争規約対応版)」
立木猛治著 伊豆大島志考P460「くさや」、P469「椿と椿油」
掲載元について
地図中心 2016年9月号(通巻528号)より
掲載記事は一般財団法人日本地図センター発行の「地図中心2016年9月号-特集 伊豆大島全島避難30年」に掲載されたものです。